其の父 曰く、「 聖人の言は、先に忤(たが)いて後に合う。 塞上に近きの人に、術を善くする者有り。
というものです。 其子又復問先生。
数ヶ月後、逃げた馬がもどってきた。
燕の太子丹はかつて秦の人質でしたが、後の始皇帝の自分への扱いがひどく燕に逃げ帰っていました。
當此之時、易子而食、析骸而炊之。
淮南子の教えの骨子は「人間社会に起こるさまざまな欲望を追及せず、自然と一体となる本来の自分を守ることが大切である」ということです。
その出来事に対する捉え方は、「自分の都合」により変わり、運が良かったと思えばそのうち悪くなったり、悪くなったかと思えばよくなったりと、心の中でコロコロ変わるだけで、実際は「ただ起きただけ」ということです。
其の父曰はく、「此れ何遽ぞ禍と為る能はざらんや。
」 「此れ 何遽 なんぞ福と 為 ならざらんや」と。
この物語が故事成語「 塞翁が馬」となりました。 (ある時、)飼っていた馬が何の理由もなく胡(西北方の異民族の地)に逃げていった。
人々は皆このことを祝福した。
本件はまだ解決していないので、もう一度ためしに、訪ねて問うてみなさい。
このことがどうして幸福にならないだろうか?いや、きっとなるのだ。
此れ独り跛の故を以て、父子相保てり。
「此何遽不為福乎。
国境のとりでの近くに、運命判断など占いの術に長けた老人の一家がありました。
子牛を鬼神にお供えしなさい。
㊟ 「 人間万事塞翁が馬 」(じんかんばんじさいおうがうま)というフレーズ自体は『 淮南子』 本文には存在しない。
それを知った人々は、塞翁にお見舞いの言葉をかけた。 「人間」は詳細は後述しますが「人」の意味ではなく、「ジンカン」と音読みする読み方もあります。 一年が経過し、胡の国が大群で国境付近へ攻め込んできた。
14中国語のまま読んでみたよ! 燕 漢文・書き下し文・現代語訳 近塞上之人、有善術者。 其の父曰はく、 「此れ何遽ぞ福と為らざらんや。
」 と言っていました。
その言葉の意味とは、それぞれの仕事で学んだことは、次の仕事の役に立っている。
152• その老人は言った、「これがどうして福とならないだろうか。
このことを踏まえて言葉の意味を付け加えると、「世の中に起きる悪いことも良いことも予期できず、それに振り回されてはならない」という格言だというのがもう少し深い意味となります。
17うまくいっても失敗しても死は免れません。 1年たって、胡の人が大挙してとりでに攻めこんできた。
幸不幸は予期できず、何が禍福に転じるかはわからない 使い方の事例 ある元外務大臣の言葉が次のように新聞などに掲載されことがありました。
「塞翁が馬」のみでも、「人間万事塞翁が馬」と同じように、「人生の禍福は最後まで予測できない」という意味になります。
その老人は言った、「これがどうして福とならないだろうか。
単に「塞翁が馬」とも使われる 「人間万事塞翁が馬」は、「塞翁が馬」という言葉だけでも使用されます。
馬、故無くして、亡げて 胡 に入る。
Then, the folks came again to comfort him. 『 淮南子』・人間訓「 」の前段の説話はあまり紹介されることがない。
人々がお祝いを言うと、その人は 「これがどうして禍(わざわい)をもたらさないと言えようか」と言った。
塞の近きの人、死する者 十に九。 その反対で、「良いことがあっても、悪いことが起きる可能性もある」という ネガティブな意味合いで使用することもあります。
14丁壮なる者、弦を引きて戦ひ、塞に近きの人、死する者十に九なり。 (人皆之を賀す。
人生はそのくり返しだ。
つまり、自分の都合で「運」というものを捉えているわけですね。
老人の息子だけは足の怪我のため、戦いに参加せず無事であった。